伊勢路忘年会2018年末 Day3-② 熊野三山から小辺路を経て高野山へ


朝から相差を出発し、熊野三山を目指します。
まずは熊野新宮と言われる熊野速玉大社へ。

◆熊野信仰の起こり
私達の祖先は、一体いつの頃から「神」の存在を感じたのでしょう?古代の人々にとって、生命の保証のない大自然の中で生きていくことは、想像を絶するほど過酷であったと思われます。自然は、言葉で言い尽くせない驚異、感動、苦しみ、そして恵みを私達に与えます。
人間の生活を、また自らをも破壊してゆく自然の猛威、一方で暖かい光と豊饒の恵みをもたらす生命の泉としての存在・・・大自然の脅威と恵みは、古代人の心に「恐れ」と、気高く聖なるものへの「畏れ」を生み出していきます。
その中で私達の祖先は、自然をも超越した完全無欠の神を望まず、大自然の中にこそ存在し、災害も恵みも合わせ与える厳しくも温かい神を望みました。
熊野には、自然が作り上げた神聖な場所がいくつも残っていて、そのような特別の場所に、熊野三山の神々は降り立ちました。
-引用元:熊野速玉大社公式サイト

◆神倉山と新宮
 「熊野権現御垂迹縁起」(一一六四年長寛勘文)はじめ諸書によると、熊野の神々は、神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇五十八年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したことが記されています。
初めは、二つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀り、平安時代の初めには現在のように十二の神殿が完成しました。
日本書紀には、神武天皇が神倉に登拝されたことが記されています。悠久の古より人々から畏れ崇められてきた神倉山には、初め社殿はなく、自然を畏怖し崇める自然信仰、原始信仰の中心であったと思われます。また、ここから弥生時代中期の銅鐸の破片も発見されています。 十月の例大祭では、お旅所に新宮の由来となった最初の宮である「杉ノ仮宮」を造り、古式に則って神事が行われます。
-引用元:熊野速玉大社公式サイト

お土産屋でみかんを物色する管氏と助六氏(笑)





ま、三社の中ではいちばん見どころは少ないですわね(笑)




というワケでお次は駐車場からえっちらおっちらと石段を登り。

更に登り。

熊野那智大社へ。
拝殿の改修中でした。

熊野那智大社は、田辺市の熊野本宮大社、新宮市の熊野速玉大社とともに熊野三山の一社です。
全国約4,000社ある熊野神社の御本社でもあり、日本第一大霊験所根本熊野三所権現として崇敬の厚い社です。
古来当社はご祭神「熊野夫須美大神」の御神徳により「結宮(むすびのみや)」と称され、人の縁だけでなく諸々の願いを結ぶ宮として崇められました。那智御瀧は自然を尊び延命息災を祈る人が多く、また八咫烏の縁起によりお導きの神として交通・海上の安全の守護を祈り、さらに御神木の梛の木は無事息災をあらわすものとして崇められています。熊野の自然と共に神々の恵み深い御神徳のある神社であります。
-引用元:熊野那智大社公式サイト

熊野那智大社について
当社は神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)の御東征を起源としています。
西暦紀元前662年、神日本磐余彦命の一行は丹敷浦(にしきうら)(現在の那智の浜)に上陸されました。
一行が光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、那智御瀧を探りあてられ、その御瀧を大己貴命(おおなむちのみこと)の現れたる御神体としてお祀りされました。
神日本磐余彦命の一行は天照大神より使わされた八咫烏の先導により無事、大和の橿原の地へお入りになられ、西暦紀元前660年2月11日に初代天皇、神武天皇として即位されました。
先導の役目を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、現在は石に姿を変えて休んでいるといわれています。(烏石)
その後、熊野の神々が光ヶ峯に降臨され、御滝本にお祀りしておりましたが、仁徳天皇5年(317年)、山の中腹にあらためて社殿を設け、熊野の神々・御瀧の神様をお遷し申し上げました。
これが熊野那智大社の始まりとされております。
那智の御瀧は熊野那智大社の別宮、飛瀧神社の御神体としてお祀り申し上げています。
-引用元:熊野那智大社公式サイト



護摩木は自分で焚いてもご利益あるんですかね?
あるんでしょうね(笑)


なんかよくある木の洞をくぐれ的な。




さて目的はこっちの方向。
まずは那智山 青岸渡寺へ。

「補陀洛や岸打つ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つ瀬」と御詠歌で親しまれている西国第一番の礼所であります。当山の縁起によるとその開基は仁徳帝の頃(4世紀)、印度天竺の僧、裸形上人が那智大滝において修行を積みその暁に瀧壷で八寸の観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初です。
その後、200年推古天皇の頃、大和の生佛上人が来山し、前述の話を聞き一丈(3m)の如意輪観世音を彫み、裸形上人が感得した八寸の観音菩薩を胸佛に納め勅願所として正式に本堂が建立されたのです。
平安朝中期から鎌倉時代は、「蟻の熊野詣」といわれ、熊野三山の信仰が盛んになり、この時、65代花山法皇が三年間山中に参籠され那智山を一番にして近畿各地の三十三観音様を巡拝されましたので、西国第一番礼所となりました。
現在の本堂は、織田信長南征の兵火にかかり、天正18年(1590)豊臣秀吉によって再建され、桃山時代の建築をとどめ紀南で一番古い国指定の重要文化財建造物で、この堂の高さは18mで、大滝の落口の高さと同じであるといわれています。
青岸渡寺尊勝院は、那智山開山の裸形上人像と如来像を安置。中世以降は天皇、皇族の熊野詣での宿泊所にあてられていました。不開門は同院の入り口にある唐破風の四脚門で有名。なお、大正7年に那智の滝参道口・沽池と呼ばれるところから発掘された、飛鳥・白鳳時代から鎌倉時代初期にかけての熊野信仰を知る貴重な那智経塚出土品のうち、白鳳、奈良時代の観音菩薩立像、また藤原時代後期の金剛界三昧耶形(曼荼羅を立体的に表現)が国指定重文になっています。境内からは那智の滝、那智原始林、太平洋の眺めもよく、鎌倉時代の重文・宝篋印塔(4.3m)や梵鐘があります。
-引用元:熊野三山協議会公式サイト

本当の目的地は遠くに見えてますね。




このアングルが有名ですかね。
那智の滝です。

那智御瀧(世界遺産・国指定名勝)
那智の奥、大雲取連山から流れている流水が大滝となっており、全山に那智48滝と申すように数多の滝があり、一番高いのが那智御瀧です。
一の瀧とも申し、高さ133m・銚子口の幅13m ・瀧壺の深さは10m以上あり、流下する水量は普通毎秒1トン程度といわれています。
この滝の上流には二の滝、三の滝があり総称して那智の大滝とされ、国の名勝になっています。
また下流には滝修行で有名な文覚滝(もんがくのたき)があります。
水は生命の母と申し、那智山信仰の根元であります。古来、延命長寿の信仰が篤く、数多の滝修行者や参拝の人々が詣で、今日もこの御瀧の水は延命長寿の水として尊ばれています。
この付近一帯は吉野熊野国立公園特別地域であり、付近の山は那智原始林として国の天然記念物であり、高浜虚子は「神にませばまことうるはし那智の滝」と詠んでいます。
那智の扇祭りの御火行事はこの参道で毎年7月14日に斎行されます。
-引用元:熊野那智大社公式サイト

なんか何年か前に滝登りして怒られた人いましたっけね?(笑)




さてお次は川湯温泉へ。
こちらは公衆浴場です。
何年前かに入りましたねぇ。

台風か何かで川の様子がだいぶ変わっていました。

有名な仙人風呂も場所が以前と違う気が。

冬にだけ設置されている野天風呂ですね。

なんだか水着着用が義務になったみたいです。
昔は露出狂バンザイなお風呂だったんですが(笑)
ちょっと興醒め。
なので入らずお次へ~~~





湯の峰温泉へ。
こちらは公衆浴場。
有名な世界遺産のお風呂、つぼ湯はこちらで入浴券を買います。



目の前の川に湯筒が。


売店で買った卵を温泉玉子にすべく吊るす管氏。
温泉玉子、美味しかったですよ~(^^♪

湯の華がすごいですね。

つぼ湯、3時間待ち(驚)とのことで外観のみ。
昔はすぐに入れたんだけどなぁ(何十年前の話しやねんw)

つぼ湯、まあネタとしてはいいんですけど3時間待つほどのことではないのでここも先を急ぎましょう。




熊野本宮大社へ。
これで熊野三山制覇!

熊野連山の三千六百峰を形成する、果無山脈。その山間を縫うが如く流れ、太平洋へと続く熊野川は、まさに熊野の大動脈です。この熊野川の中枢に、古代より熊野巫大神の鎮座されるお宮が、熊野本宮大社です。熊野本宮大社は過去「熊野坐神社くまのにいますじんじゃ」と号し、熊野の神と言えば本宮のことを表していたものと推測されます。
熊野坐大神の御鎮座の年代は文献に明白ではありませんが、神武東征以前には既に御鎮座になったと云われており、社殿は崇神天皇65年(紀元前33年)に創建されたと『皇年代略記』や『神社縁起』に記されています。奈良朝の頃より仏教を取り入れ、平安朝以後は仏化により「熊野権現」と称し、神々に仏名を配するようになりました。熊野本宮大社は上・中・下社の三社から成るため、熊野三所権現と呼ばれています。また、十二殿に御祭神が鎮座ますことから、熊野十二社権現とも仰がれています。
平安当時、宇多法皇に始まる歴代法皇・上皇・女院の熊野御幸は百余度に及びました。幾度かの御幸に供奉した藤原定家が『明月記』の中で「感涙禁じ難し」と記しており 、困難な道を歩き御神前に詣でたことが、いかにありがたく、いかに御神徳が高かったかを窺い知ることができます。
1184年、第21代熊野別当に就任したのは、本宮・田辺を拠点とする田辺別当家の湛増でした。
源平二氏の争乱に際し、湛増率いる熊野水軍が源氏側についたことにより、勝敗が決したと云われています。

※熊野別当・・・熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の統轄にあたった役職

南北朝から室町時代にかけては、皇族や貴族などの上流階級に代わり、武士や庶民の間に熊野信仰が広がりました。身分の貴賤や老若男女を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さゆえ、熊野には大勢の人々が競って参詣し「蟻の熊野詣」と呼ばれる現象を起こすまでに至りました。
なお残念なことではありますが、明治二十二年の未曽有の大水害により社殿のうち中・下社が倒壊し、現在地に上四杜のみお祀りすることとなりました。他八社は石祠として旧社地大斎原おおゆのはらにお祀りし、現在に至っております。
参考文献:熊野本宮大社前宮司  九鬼宗隆  
熊野三山信仰事典(戎光祥出版)
-引用元:熊野本宮大社公式サイト


なんだか工事してました。

さてここでも石段を上がりますよ~




お詣りいたしましてさてまた急ぎましょう。
この日は本当にタイトなスケジュールなんですよ(汗)






時間がなくていけませんでしたが近くに大斎原(おおゆのはら)という大鳥居もありますのでお越しの際はぜひそちらも。

熊野本宮大社 旧社地「大斎原」
神が舞い降りたという大斎原。近年はパワースポットとして多くの人が訪れています。
熊野本宮大社はかつて、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中洲にありました。
当時、約1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、現在の数倍の規模だったそうです。
江戸時代まで中洲への橋がかけられる事はなく、参拝に訪れた人々は歩いて川を渡り、着物の裾を濡らしてから詣でるのがしきたりでした。
音無川の冷たい水で最後の水垢離を行って身を清め、神域に訪れたのです。
ところが明治22年(1889年)の8月に起こった大水害が本宮大社の社殿を呑み込み、社殿の多くが流出したため、水害を免れた4社を現在の熊野本宮大社がある場所に遷座しました。
かつて多くの人々の祈りを受け止めた大斎原には、流失した中四社・下四社をまつる石造の小祠が建てられています。
大斎原は、現在の熊野本宮大社から500mほど離れています。熊野本宮大社から道路を隔てて、大鳥居(高さ約34m、幅約42m)が見えます。その背後のこんもりとした森が大斎原です。熊野本宮大社から徒歩10分ほどなので、ぜひ訪れてみてください。
また、大斎原は桜の名所としても知られ、鮮やかな春の色に彩られた姿も見ものとなっています。
-引用元:熊野本宮観光協会




高野山 金剛峯寺 中門

もう夜になっちゃったので奥の院は入れず。
しょうがないのでライトアップしているこちらへ。

金堂の正面手前の一段低い所に、そびえる五間二階の楼門です。壇上伽藍はかつて天保14年(1843年)の大火により、西塔のみを残して、ことごとく焼き尽くされました。先代の中門もその折に失われ、今日までなかなか再建叶わずにおりましたが、高野山開創1200年を記念して170年ぶりに、この度再建されました。持国天(じこくてん)像・多聞天(たもんてん)像・広目天(こうもくてん)像・増長天(ぞうちょうてん)像の四天王がまつられています。 なお、持国天像と多聞天(毘沙門天)像は二天門であった先の中門に安置されていた像で、類焼をまぬがれてこの度保存修理が完成しました。広目天像・増長天像は現代の大仏師松本明慶師の手により新造されたものです。
-引用元:金剛峯寺公式サイト





壇上伽藍

お大師さまが高野山をご開創された折、真っ先に整備へ着手した場所です。お大師さまが実際に土を踏みしめ、密教思想に基づく塔・堂の建立に心血を注がれました。その壇上伽藍は、〈胎蔵曼荼羅〉の世界を表しているといわれています。高野山全体を金剛峯寺という寺院と見たとき、その境内地の核にあたる場所で、古来より大師入定の地である奥の院と並んで信仰の中心として大切にされてきました。以後の各諸堂の案内順番は、高野山に伝わる『両壇遶堂(りょうだんにょうどう)次第』に則っています。ご紹介順に諸堂をご参拝されますことをおすすめ致します。
-引用元:金剛峯寺公式サイト





大塔の鐘 高野四郎



友人は遠方からはじめてに近い関西だったのでもう少しゆっくり観てもらいたかったのですが、また来てもらうとしましょう。
しかし逆に私は夜の高野山ははじめてで、ライトアップされているさまは美しくてよかったです。

さて今度は味わってもらいたい関西を案内しに一路大阪へ~


Dec. 29, 2018 Sat.

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